或る宗教家との対話より

某コミュニティで宗教家である友人と俺との対話。

宗教家:
人は何を一番恐れていると思いますか?
自分が理解出来ないもの、完全に理解を越えたものに直面した時、
人間は独善的な仮説をたてるのです。
そうして、自分の地位を護ろうとするものです。

俺:
そうだね。珍しく君に同意。
共同体の外側とか自然現象であるとか、特に自分の外側にあるモノ、危害を加えるおそれのあるモノに対して神と崇めたり悪魔と恐れたり妖怪として括ったりする。それが自分勝手な仮説。

ところで「人が何かを恐れる理由」と言うのが神という存在をこれほどに普遍的にさせたと理解して言うのだが。理解できない恐怖から自分勝手な仮説を立てるのと同じように自分勝手な神を措定する。違うか?(笑)

神という存在を一義的に捉えそこから思考を始める会話相手に対して俺はやや意地悪な返答をしている。いつも俺は彼をからかっているが別段、嫌われてもいなさそうなのでこれで良いのだろう。時折、禅問答のような会話を仕掛けられ、俺はそれを苦笑いしつつ混ぜっ返し気味に返事している。

知らないと云うことは恐怖や畏怖を生む。それが神や悪魔が存在しうる一つの理由だろう。神や悪魔を肯定しつつ思考を止めてしまうか或いは"知らないこと"を克服すべく知ろうとするか。極端な二元論に逃げるつもりはないけれど態度として二通りあるだろう。俺は常に後者よりの立場を取りたい。

"知らないこと"が発生したとき神を通してそれを知るのか、或いはそれを介さず知ろうとするのか。こう言い換えても良いかも知れない。しかし、神というフィルタを通せば事物は曇って見えるのではあるまいか。そんな風にも思う。

知らないことを放置してただ神にすがれば楽ではないか。知りたいってことも欲望の一つなのだよって考え方も理解できる。しかし、すがるべき神を提示する側は神を知っている訳だ。では神について知ることは欲望が為したことではないのか。

なんて事をとりとめもなく考える。神を措定した上で森羅万象の様々を知っていけば最後に純粋な神が残るのかも知れない。神を否定して知ったとしても最後に神の存在に気がつくのかも知れない。何れにせよ俺のような凡愚には図りがたいことだ。