勧善懲悪という悪 - ナニワ金融道とカバチタレ

勧善懲悪というストーリーがこれほど世の中に蔓延しているのはいい加減何とかならないかなって思う。

正義なんていつも相対的概念だ。正しいのも間違えているのも全て相対的概念だ。何が正しいかって事はどこに折衷案を持ってくるかって事に等しい。そして、人はその折衷の仕方を進歩させてきた。

社会契約論があり、戦争があり、そして戦争を避ける手段があり。民族自決権とか内政不干渉とかもその折衷の方法の一つであるはず。利害が対立する場合はお互いを尊重する。どちらかを選択せねばならない時は多数意見を尊重する。お互いに譲らない場合に争いとなる。争いは常にどちらが正しいという問題ではない。争わざるを得なかった、折衷案を見いだせなかったという敗北だ。

これは国家とか地域とかの話ばかりではない。共同体の内側だって同じ事だ。
争いを起こさせないために社会の秩序を整える。そしてそれは法として定められる。秩序は正しい方向に向かうとは限らない。圧政もあるだろうし民主国家であっても戦争は起こる。その秩序に対する造反は様々なフェーズで発生する。理論的に整合性を持たせ、革新政治勢力になる場合もあるだろうしテロや犯罪や非行という形で顕れることもある。そんなモノも全て相対的と思う。絶対悪など無いし逆もまた真なり。

ところが勧善懲悪論にはまず、悪がありきだ。
その立場であるとか事情であるとか背景であるとかそんな情状酌量は一切無い。まず、悪。
それが正義によって裁かれる。そんな構図。そういう、判りやすい単純な構図が蔓延しているからこそみんなの脳味噌が単純になるのだ。物事を考えようとしない。思考停止の訓練。それが勧善懲悪だ。
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ナニワ金融道」の青木雄二氏が亡くなってから暫く経つ。
彼の腹心だかシンパだかが「カバチタレ」を書き始めた。暫くは監修という形で青木雄二氏が絡んでいたのだが氏が亡くなってから違和感を感じることが多くなった。

青木氏のマンガでは追うモノも追われるモノも悲しい。そしてどちらも愛おしさをもって描かれていた。だから、その物語を自然に受け入れることが出来た。人間ドラマとして楽しむことが出来た。

カバチタレ」もその後継として楽しんではいたけど。近頃、随分変わってしまったと思う。
初期の作品とキチンと比較出来てる訳じゃない。単なる印象で申し訳ないけど善悪がハッキリしすぎだ。そんなマンガはもっとヒドイモノを含め、腐るほどあるのだけど。青木氏の流れを汲むからこそ残念に感じるのだと思う。そして、今更ながら青木雄二氏の作品に溢れる人間愛を懐かしく思い出す。