AKIRA再び

先日、マトリックス、リローデッドと続けてみてふとAKIRAに立ち返ってみたくなった。
んで、見てみた。やっぱり面白いしカコイイ。

マトリックスは最後(レボリューション)を見てないけどここまで見た範疇での俺の解釈として。マトリックス=秩序なのだと思う。マトリックスと云う秩序に抗う人間の物語。秩序=神と置き換えても良い。ではマトリックスと言う秩序を壊した後は我々は自由なのか、自然とか宇宙とかって云うさらに大きい秩序に絡め取られるだけではないか。しかしながら今、束縛している秩序を壊したい、そう願うのが人間だ。この手のストーリー(って十把一絡げにするにはどれもが偉大すぎだけど)が示すテーマはいつもそんなところに俺の思考を落ち着かせる。(んで、グルジェフのオクターブの法則を思い出し結局は中庸を考えるのが最善だとか思う)
レボリューションがどんな結末を用意しているのか楽しみ。結局、ビデオで見るのだろうけど。

んで、AKIRAの話。
AKIRAも記憶の片隅で神との戦いがテーマだなって感じていた。んで、もう一回見てみてその想いをを反芻した。マトリックスでの神は秩序だけどAKIRAでの神は力だ。バーチャルリアリティという概念で層化された世界観を呈したのに対しビッグバンを示唆させる事により階層的な宇宙を表現したのがAKIRAかな。やはり、物語の繋がりは強く感じる。

もう一つ思ったのはエヴァンゲリオンとの繋がりだ。
上手く言えないけどテツオ=使途なのだ。力を使いたい側が力をもてあましそこから反乱を生まれる。この構図は遡れば仮面ライダーに行き着くかも知れない。

まあ、こんな事はどこぞで語り尽くされているんだろうな。

古いSFを見ると現実に進化した世の中との乖離が面白かったりする。AKIRAに出てくるディスプレイの類は基本的にセグメントを面発光させて表示する。そういえばエヴァンゲリオンをそうだったような。セグメント方式のディスプレイは今は殆ど見なくなった。路線バスの行き先表示板すらLEDに拠る点発光になっている。その辺は日本のSFの伝統なのかも知れない。アメリカの映画なんかだとLCDもちゃんとピクセル表示が多いのにね。
あと笑ったのがワイアードな電話を使って女の子と彼氏(?)が会話しているシーンがあった事。今時、珍しいよな(笑)。